依存してしまうこと
久しぶりの投稿になーる!
ただ単に書きたいことが見当たらなかったため、間が空いてしまったが自分のペースに任せることにする!
このブログ見てくれる人にはいつも感謝してます。
大したこと書いてないけど、これからもよろしくということで!
さて、今回のテーマは「依存」である。
人間は弱い生き物
人間はいろんな意味で弱い生き物である。
独りじゃ基本何もできないから、コミュニティに所属してその恩恵をもらい、貢献して生きている。いい意味でも悪い意味でも。
「俺はそうじゃない!独りで立ってる!」って人も気づいてないだけで何かしら支え、支えられて生きてるんだろうと思う。
辛いことは誰にしてもあって、拠り所はいつの時代も、どんな人でも探しているんだろう。
それに支えられながら上手いこと事が進み、状況が良い状態に保たれるならそれはベストな関係だと思う。
ところが、あまりいい状況ではないのは「依存」した状態。
形を変えて
僕らが生きる時代、多くのことが目まぐるしく発展している。
周りのありとあらゆるものの構造をいまいち理解してないのに、便利が故、使ってしまっている。
言うまでもないが、便利だ。いつでも、どこでも、素早く、大量の情報をこちらまで運んでくれる。
しかし、情報が多すぎて無駄が多いのも事実。
必要以上のネットワークに拘り、数値に拘り、その状況に皮肉にも人間の脳は慣れてしまっている。
人間の欲、本能、好奇心を見事に操った商品をみんなが求め、買い、その会社は儲けている構図だ。
そして、それらを使い続けることによって、酷使することによる弊害(例えば精神に異常をきたすとか、脳の影響とか)はまだまだ研究の蓄積段階。
つまり僕らは実験室のモルモットなのだ。
もちろん、多くの個体中には害のでないものもいる。
その原因物質と思われるものが本当に直接的な害を示しているのかを決定づけるのは難しいし、なにより理解されにくい。
端から見れば、その人がそれが好きでやり続けているように見えるため、意志が弱いや、気力でやめられると思うが、「依存」した状態それとは違う。
やめたくてもやめられない。
やらないと落ちつかない、イライラする。
また同じ興奮を、いやそれ以上のものが欲しい。
もはや、ドラッグである。
実際、依存状態になればドラッグ同様のドーパミンが放出される。
だから、怖い のである。
どんな人間でも、そうなりえる恐怖がそこにはある。
≪単なる独り言≫
依存の有名な実験にラットパーク実験というものがある。
ストレス下におかれたラットAと、食糧や遊び場も十分な”ラットパーク”に入れられたラットBの実験で、ABともにモルヒネ入りの水を飲ませたそうだ。
そしたらBは、その水に依存することなく普通の水も飲んだが、Aはその水を求めるようになったという。
つぎに、そのAのラットをラットパークに入れたら、普通の水を飲むし、依存は見られなくなった。
もしこの実験が正しく、人間でも当てはまるのならば、ストレスを抱えているものが依存性のある物質を与えられるとそれにハマり、現実に満足してる人間はそれにはハマらないということになる。
また、ラットを使った快楽(ドーパミン)の実験もある。
ラットが自分でレバーを押して側座核を刺激できるようにすると、食べることも、水を飲むこともせず、交尾をする機会にも興味を示さずに、1時間(3600秒)に2000回近くもひたすらレバーを押しつづけたという。
この実験は、鬱に苦しむヒトでも行われ(今では人権上考えられないが)、同様に快楽を得るためにレバーを引き続けたという。
この二つの実験で何となく思うのは……
人生バラ色の恵まれた人たちはそういったものに苦しむことなく、世の中に不満やストレスを感じたものはそれに依存し、ハマり、廃人コースを歩むまさに負の連鎖。
何だこの世の地獄のような光景は。理不尽極まれりぃぃ‼
要するに、不満があろうがストレスがあろうが、程よくバカになれば救われる。
逆に人生バラ色コースの方も一歩間違えれば廃人コースに招待されるかもしれないので注意ってことである。