それでも、筆を執る
早すぎんねん、2023
こわいなぁ... こわいなぁ...
同年代の友人がどんどん結婚していくよ。
同窓会、楽しかったけど。複雑な心境だったなぁ。
盛大にカラオケで吐き散らして、友達に助けてもらって店を後にした。
帰路は独りで、非常に寒かったけどすぐに風呂に入って、追い炊きしたらいい気持ちになった。....
父親が引き戸を開けて覗き、「大丈夫か?」と声をかけられたもんだから、すっと目を開けてみると窓の外はすっかり明るくなっていたんだ。
そう、浴槽で5時間ねてたよ。
ふやけすぎてがんもどきになってたよ。何がとは言わないが。
今年は僕ら男(1999生まれ)は本厄らしい。
殺されなかったのは、お前はまだ生きろなのか、まだ苦しめなのか、どちらだろう?
それもまた、神のみぞ知ると。
Simple is
このブログを始めて2年ほどたつが、麦わらの一味ほど目覚ましい発展はできていない気がする。
以前のブログにも書いた気がするが、単純バカほどなんだかんだうまく生きていけるのではと思った。
海賊王に俺はなる、と一見ばからしいことも愚直に着実に前に進めば見えてくるのかもしれない。海賊王にはならんけど。
人様に迷惑かけない、ちょうどいいくらいのナルシストでいたほうが良いのだ。
自信過剰じゃあ周りが見えなくなるが、卑屈じゃあ出来ない理由を探してしまう。
思ったより、人は自分に興味はないし、自分も必要以上に興味を持つ必要はない。
何を頑張っても結局、人は独りで生まれ、独りで死んでいく。
だとしたら、とりあえず飯がうまいと感じられればいいし、食いに行く友達がいれば儲けものなのだ。
そんな単純なことさえ、忘れてしまえるほど世界は複雑で美しい?
いや、複雑にしていたのは自分なのかもしれない。
それでも私は筆を執る
そんなこんなで、快調な滑り出しの2023。
僕らにとってまた激動且つ、辟易する一年になるのかもしれない。
意外とこのブログが読まれてて、褒められただけで書く気になっているんだから、単純バカの素質が僕にはあるみたいだ。ありがとうね。
とりあえず、頑張りましょう。2023。
どうも、めんど上くさ杉です
シーザーサラダってうまいからいくらでも食えそうだけど、塩分とかカロリーも地味に高そうだから沢山はよくなさそう。
まあ、おいしかったらなんでもいいのだ!
考えすぎるのも体に良くないだろう!
しかしいくら
隱、鬲泌喧しても、逍イ繧後kことには変わりない
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大抵の悩みは対人関係
悩みの9割くらいは対人に関わる
全く悩まない人がこの世にどれぐらいいるかは分からないが、少なくとも大抵の人々は様々な悩みを抱えているだろう。
そして、基本的に分類すればほとんどのものが対人に関わる。
コンプレックスなんて言われているものなんか最たるもんだ。
明確に『誰か』なんて決まっていないが、その圧倒的多数のどうでもいい『誰か』におびえ、コンプレックスが誕生する。
どっか無人島やジャングルにぶっこまれたら、純粋にどうやって生き残るかだけを考えて、あの手この手で血だらけ、泥だらけになりながら火をおこしたりするんかな?
ところが、物質的にも恵まれた人間社会に囲まれた瞬間、なんとなく息苦しさを覚えるのだ。
恥ずかしいは一体どこからやってくるのか
不思議なのは、恥ずかしいって感情は一体どこからやってくるのかってことだ。
極端な話、さっきの無人島で全裸で走り回っても恥ずかしさなんてないだろうけど、なぜここでは恥ずかしく感じるんだろうか?(その恥ずかしさを快感にする人たちもいるんだろうが(震))
ただ江戸時代とか?昔の日本は女性も男性も上裸や全裸でも恥ずかしさを覚えなかった?
ところが鎖国を解いて、西洋の文化が取り入れられた結果、人々の認識に変化が生じ、今僕らは恥ずかしく感じるのか………
女性が化粧なしで出かける際も恥ずかしさが生じるだろうが、あれもどこから来るのだろう?
おそらく常識って言葉で片付けられてしまうんだろうが、その常識を作り上げて得をしているものがあるからじゃないのかって。
いわゆる『産業』だ。
必ずしも、この産業などの巨大な力が悪だとは言わないが、あなたは恥ずかしい状態だからうちの商品で変わりましょうって自尊心も金も吸い取られるのもなんだかなーって思うのだ。
もちろん強制されていないことだからしなくてもいいが、しないと社会の常識や流行という名のレールには乗れず、うまい汁も啜れないのだ。
そのレールがすべてだって考えて生きるのも良しなんだろうが、僕はめんどくさがりのクセして人目を気にするので、正直きちぃです。
僕の今の悩みの根幹がここにあるわけです。
悩みを悩みとしなければ悩みにはならない(小泉構文?)
要は気にしなければ勝ちということです。
気にして、解決できる力があって、その結果うまい汁を啜れるならやるべきで、骨折り損するような類なら別のことに労力をつぎ込もうってね。
人は精神的に弱っていると0か100思考に陥りやすく、正常な判断もできなくなるので、特に気を付けたいなって思うね。
今は不人気でも、ひたむきに自分のブランドを愛し続けられたら『勝ち』で、それが『価値』になるってね!
………
今僕いいこと言ったよね!絶対言ったよね!
とりあえず悩みに関して思うのは
一度でいいから「モテすぎて困るんだよねぇー」とか髪の毛いじいじしながら言ってみたかった人生でしたっ!
自分のネジは自分で巻かねばならない
力が入らない原因
9,10月頃からなんだかんだ継続してた筋トレをやらなくなってしまってから、久しぶりに懸垂をしようとしてもうまく力が入らない。
心と体はやはり繋がっていて、集中もなければ力を入れようにも、入らない。
そこには明確な目標があったから、アホみたいに重いダンベルを持ち、単純で何の楽しみもない動きを反復して、いわゆる「筋力トレーニング」をするのだ。
何でもいい。あのモデルや俳優さんみたいになりたいだとか、女にモテたいだとか、一見バカみたいなものでも、心の底から望むから努力・継続ができる。
そしてその過程に魅力はなくとも、身体に変化が生じて初めて筋トレの魅力を覚えるのだろう。
僕の下手くそで足りないところは恐らく、この目標設定の曖昧さと望み得たいとする心や得られるという自信や自尊心だろうか。
それができないから、揺れる。
ネジを巻くのが面倒くさい
僕はこの性格に苦しめられてきた。
性格によって他者を傷つけてしまうなんてまだよい方で、自分を傷つけてしまうケースは一番厄介だ。
何とかしようと考えては、問題にぶち当たるうちに、ぷつんと切れたようにめんどくささだけが残っていた。
本音は良い方向に向かいたい。よくなりたいと思っている。
でも、馬鹿な目標1つ立てられなくなった精神状況では、不安やリスクを孕んだ行動にめんどくささを覚えるのみで動けない。
そして、動力を失ったソレは不安定になって、道端に倒れてしまう。
誰にも気づかれないまま。
時には自分で巻かねばならない
巻いてくれる存在が近くにいないなら、なんとか巻くしかない。
どうしようもないけど。
だから思う。
ネジ式じゃなくていい加減半自動で動けるくらいの図太い精神が欲しい。
夢現
変わらない日常
良くも悪くも変わらない日常に感謝しつつも、やはり辟易する。
変化を好むことはいいことなんだろうけど、尻込みするのは事実であって、嫌悪する部分でもある。
変化がないこともいいことだろう。もともと人間は省エネするようにできてるんだから、逆らえば疲れる。でも”良い疲れ”は適度にハリを与えてくれるもので、本音はそれが疲れの中の大半を担ってほしいと思うが現実は厳しい。
バランスは難しい。以前も記事のネタにした。
勝手にその比率をシステム制御し、バランスのいい人生ならば楽なんだろうけど、他人はそれをつまらない人生という。
問題は偏っていても自分では気づかなかったり、誰も教えてくれなかったときだ。
結局、動き続けないと気付かないし、気付いてもらえないのだろう。
こういうことに気づいたは良いものの、補修工事ばかりしている僕は間違いなく”悪い疲れ”を自ら貯め込む、さながら超絶燃費の悪い車のようだ。
廃車にならないように気を付けたい。
解釈の自由
捉え方次第とはよく漫画やアニメ、ドラマや歌詞に至るまで、人生を説くものの常套句のように思う。
たしかにそうなんだろうね。
死ぬ以外のかわいい失敗達なんて、捉え方次第の魔法でいくらでも次の糧になってくれるのだろう。
どうせみんな灰になっちまうのに、何を頑張り、残すっていうのか?
その灰になる日なんていつか分からないわけで。
結局、今を生きるに帰着する。
だから、変わらない日常は餓死せず、核爆弾でチリにされず、生物兵器で寝たきりよりマシでだいぶ幸せだろうと勝手に解釈したりして。
久々です。只呟く。
こんにちは。お久しぶりです。
最近、このブログに手を付けていませんでした。
まあ、いいよね!誰が見てるかわからないし!細々とやりますわ!
さて、もう12月です。いやぁ、早いっすねぇ………
バグですか?
ここ数年バグが続いていて、そろそろメンテナンスしないと棺桶に片足突っ込んでしまいますよ。
まあ、年の瀬近づくと大抵その一年なんて早く感じるもんだよね。
それもあるし、別の理由も大きく関与してそうだけど。
例のウイルスも順調にファミリー作ってくれて、微笑ましい限りでね!
なんだって?オミクロンだっけ?
何でも、ギリシャ文字使い果たしたら、星座とか用いるかもって話だ。
自分の星座なんて使われたら妙に愛着湧いちゃうじゃねえか。
もういい加減にしてほしいもんだね。誰もが思ってるんだろうけど。(諦観)
関係ない話だけど、父親の経営してる病院のスタッフが鬱になったそうな。
ずっと食卓でその話してるから、経営してる側も大変なんだなと。
自分のなすべきことが分からなくなって、加え引け目に感じるモノたちが相まって、外に出られず、起きられなくなっているらしい。人柄は優しく、真面目な人。
どこか重なる部分が多くて、他人事に聞こえなかった。
なんだろうね。表面上に現れる症状ならみんな心配するし、わかりやすい。
だけど、心に関しては見えないから本人しか知り得ない。
なんなら、その本人ですらも、なぜこんな風に壊れてしまったのかわからない。
物質的にも経済的にも今は恵まれている日本でも、恵まれてるからと言って幸せに必ずしも直結してるわけではない気がする。
多様化は豊かにするが、同時に分かりにくくもなった。
生き方のマニュアルなんてないし、それが人生の面白さなんて他人は言うけど。
それって、なんとなく普通に過ごせていた人が振り返って言えることで、余裕のない人等にとっては藁にも縋る思いで知りたいことだろうね。
もちろん知りたくても売ってないし、ないんだけど。
だから、どんな人でも、どんなナリしてても、自然と自尊心が芽生え、保たれれば一番いい。自分はこれで大丈夫なんだってね。(従ってナルシスト最強説)
それは外的なものでも内的なものであってもいい。
内的が難しい人には、さりげなく周りが導いてやれればね。
やることはかなりシンプルだと思う。言葉一つ態度一つで変わってくるだろう。
互いに感謝しあい、尊敬しあえたら自然と支えたい、支えられる人になれるんじゃないかって。
現実はそうはいかないけど。邪魔するというか、水を差す人はいるもので。
それがあったとしても揺るがない芯が欲しいもんだと思う今日この頃。
小さい頃はスーパーマンだったんだろうけど、もはや手のひらサイズの自尊心の僕ですが、やるときはやって、休むときは休む。
自分のことを気にかけてくれるひとは大切にしたい。
人生は一度しかないしね。
あ、まだ何機か残ってる人いるなら分けてください。オネガイシマス(´;ω;`)
依存してしまうこと
久しぶりの投稿になーる!
ただ単に書きたいことが見当たらなかったため、間が空いてしまったが自分のペースに任せることにする!
このブログ見てくれる人にはいつも感謝してます。
大したこと書いてないけど、これからもよろしくということで!
さて、今回のテーマは「依存」である。
人間は弱い生き物
人間はいろんな意味で弱い生き物である。
独りじゃ基本何もできないから、コミュニティに所属してその恩恵をもらい、貢献して生きている。いい意味でも悪い意味でも。
「俺はそうじゃない!独りで立ってる!」って人も気づいてないだけで何かしら支え、支えられて生きてるんだろうと思う。
辛いことは誰にしてもあって、拠り所はいつの時代も、どんな人でも探しているんだろう。
それに支えられながら上手いこと事が進み、状況が良い状態に保たれるならそれはベストな関係だと思う。
ところが、あまりいい状況ではないのは「依存」した状態。
形を変えて
僕らが生きる時代、多くのことが目まぐるしく発展している。
周りのありとあらゆるものの構造をいまいち理解してないのに、便利が故、使ってしまっている。
言うまでもないが、便利だ。いつでも、どこでも、素早く、大量の情報をこちらまで運んでくれる。
しかし、情報が多すぎて無駄が多いのも事実。
必要以上のネットワークに拘り、数値に拘り、その状況に皮肉にも人間の脳は慣れてしまっている。
人間の欲、本能、好奇心を見事に操った商品をみんなが求め、買い、その会社は儲けている構図だ。
そして、それらを使い続けることによって、酷使することによる弊害(例えば精神に異常をきたすとか、脳の影響とか)はまだまだ研究の蓄積段階。
つまり僕らは実験室のモルモットなのだ。
もちろん、多くの個体中には害のでないものもいる。
その原因物質と思われるものが本当に直接的な害を示しているのかを決定づけるのは難しいし、なにより理解されにくい。
端から見れば、その人がそれが好きでやり続けているように見えるため、意志が弱いや、気力でやめられると思うが、「依存」した状態それとは違う。
やめたくてもやめられない。
やらないと落ちつかない、イライラする。
また同じ興奮を、いやそれ以上のものが欲しい。
もはや、ドラッグである。
実際、依存状態になればドラッグ同様のドーパミンが放出される。
だから、怖い のである。
どんな人間でも、そうなりえる恐怖がそこにはある。
≪単なる独り言≫
依存の有名な実験にラットパーク実験というものがある。
ストレス下におかれたラットAと、食糧や遊び場も十分な”ラットパーク”に入れられたラットBの実験で、ABともにモルヒネ入りの水を飲ませたそうだ。
そしたらBは、その水に依存することなく普通の水も飲んだが、Aはその水を求めるようになったという。
つぎに、そのAのラットをラットパークに入れたら、普通の水を飲むし、依存は見られなくなった。
もしこの実験が正しく、人間でも当てはまるのならば、ストレスを抱えているものが依存性のある物質を与えられるとそれにハマり、現実に満足してる人間はそれにはハマらないということになる。
また、ラットを使った快楽(ドーパミン)の実験もある。
ラットが自分でレバーを押して側座核を刺激できるようにすると、食べることも、水を飲むこともせず、交尾をする機会にも興味を示さずに、1時間(3600秒)に2000回近くもひたすらレバーを押しつづけたという。
この実験は、鬱に苦しむヒトでも行われ(今では人権上考えられないが)、同様に快楽を得るためにレバーを引き続けたという。
この二つの実験で何となく思うのは……
人生バラ色の恵まれた人たちはそういったものに苦しむことなく、世の中に不満やストレスを感じたものはそれに依存し、ハマり、廃人コースを歩むまさに負の連鎖。
何だこの世の地獄のような光景は。理不尽極まれりぃぃ‼
要するに、不満があろうがストレスがあろうが、程よくバカになれば救われる。
逆に人生バラ色コースの方も一歩間違えれば廃人コースに招待されるかもしれないので注意ってことである。